通訳介助について

以前、アートトランスレーターを生業にしていらっしゃる田村かのこさんのレクチャーの感想レポートとして書いたものです。



  私は去年から盲ろう者の指点字通訳者の仕事をしているため、通訳者としての思考や葛藤について共感や発見するところが多くあった。その中でも特に “「あいだ」に創造性が宿る”という言葉が印象的だった。盲ろう者の通訳者は文字通りの意味で彼ら盲ろう者の目と耳となり、「人と人」はもちろんだがそれよりも「人と世界」をつなげている感覚が強い。そのため私はどうしても生まれてしまう「あいだ」をできるだけないものにすることを過去に目指そうとしていたからだ。

 盲ろう者への通訳技術の基本として「直接話法」「客観的事実と主観の切り分け」の2点がある。これは盲ろう者本人を置いてけぼりにして話を進めてしまう事態や、通訳介助者の主観で歪められたものをさも客観的事実のように盲ろう者に伝えることを避けるためである。これは田村さんが「通訳の持つ力(権力と責任)」として紹介されていたものに当てはまる。その中でも一つ目に挙げられていた「嘘がつけてしまう」ということは私もよく意識する。見えなくて聞こえない人が嘘を察することは難しいからだ。(しかし親密になった盲ろう者には体の強張りや手汗の感じで焦りや困惑、体調不良がバレることも多い。)

 人間を盲ろう者の通訳介助者という一種のテクノロジーにするために、全国の盲ろう者友の会などの団体では定期的に養成講習会が開催されている。そこでは安全な移動介助方法だけでなく、対話の内容を直接話法で伝える練習や、周囲の状況説明をする練習が重点的に行われている。私はそこで普段無意識に主観的に捉えているこの世界を客観的事実で言葉にして説明する練習を行った。それは私にとって、世界を主観的に知覚する自分という存在を抑圧し、抹殺することで盲ろう者といつでも一心同体になれる身体づくりをしているようなものだった。この時目指していた通訳者像はかなり透明に近いものだった。しかし、通訳介助者が盲ろう者と会話する場面は多い。このとき通訳介助者は盲ろう者にとってメディアであり会話相手でもあるという透明性と実体性を求められた状態となる。日常会話の範囲であれば騙し騙しうまくやれるが、通訳介助者が対話相手として実体性が強まる場合、問題が発生する。自身盲ろう者であり東京大学教授の福島智先生と元妻の光成沢美さんへの取材から生まれた『ゆびさきの宇宙』という本の中にこんな記述がある。

 そもそも光成の思う「通訳者」とは、「本人と一心同体」だ。本人の代わりに情報を集め状況を説明し、世界を提供する役割だ。それと妻としての、ときに反撃する「けんか」を、同じ指点字で福島にぶつけるのは、もともと無理なのだ、とわかった。

この一節を読んで盲ろう者の通訳介助者として一線で活躍したに光成さんにとっても、透明性と実体性を共存させることは難しいのだとわかった。そして一心同体を目指すこと自体に懐疑的になった。盲ろう者からの通訳に対する要望やダメ出しを人格否定のように捉えてしまうなど、透明性と実体性の狭間で混乱したり取り違えるケースは少なくない。(これは身体障害者への通訳者に多いのかもしれないが)メディアとしての通訳者に求められる透明性を奉仕による自己の消滅と混同してしまう危険性もある。そのため田村さんの言う「あいだ」に意識的になることに通訳者としての自己を確立させるヒントがあると感じたのだ。

 アートトランスレーターは「翻訳も創作の一部を担うという責任を感じながら活動する」と聞いた時、私は盲ろう者への通訳において自分がやっているのは「世界の再構築」なのではと考えた。目の前で起こっている全てを伝えることはできないからこそ、通訳者にその取捨選択が担わされるからだ。私は過去に団体名や病名など頻出する専門的な固有名詞の知識が乏しかったことや、誰と誰がどういう関係性なのかの把握が不十分であったばかりに頓珍漢な通訳をしてしまった経験がある。アートトランスレーションを行うにあたってミーティングなどの準備段階からトランスレーターが関わっていくというのも、ある言語を別の言語に置き換える単純作業ではなく、その言葉が何を意図して発されたのかの本質を掴むことで本当の意味で通訳が可能だからだろう。そのリサーチのようなプロセスは「あいだ」に生まれるものを齟齬ではなく創造的なものにするために必要なものだと強く感じた。

 「ニュートラルな立場で、しかし共感の気持ちは深く豊かに、かつ冷静に」
人間には完全に実現することは難しいことかもしれないけれど、通訳者の理想のスタンスとして常に意識することが大切な、心に刻みたい言葉だと思った。